内藤勲のプロフィール

内藤勲です

13年間のスキーのインストラクターから、2009年インターネットを活用したビジネスへ。
ブログやSNSを使って、売り込むのではなく、自然体で自分らしい発信でファンを作る方法を伝えています。

これまで4000人以上のブログカスタマイズやSNS、ブログ運営指導に携わっています。
各地で勉強会やセミナーも開催しています。

出版実績
「アメブロ逆引きQ&A101」

秋田の田舎に生まれ育つ

秋田県の内陸、視界の端から端まで連なる奥羽山脈と、出羽富士とも呼ばれる鳥海山に囲まれた田舎で生まれ育ちました。

家族は、りんごと米の農業を営む父親と、会社勤めの母親、姉と兄、じいちゃん、ばあちゃんでした。3人兄弟の末っ子です。

気に入らない事があるとどこでも怒鳴り散らす、気性の荒い子供でした^^; 
今からはあまり想像できないかもしれませんが、学校で机とかぶん投げてました(笑)

3つ上の兄は、スポーツ万能で学校中のヒーロー的な存在。
少年野球では4番でピッチャー、水泳をさせれば地区の大会で優勝、中学で始めたバスケでは名門能代工業からスカウトされるほどの選手でした。
みんなから憧れられる兄を、誇らしく思ったものです。

しかし、いつも「○○さんの弟」としてしか見られず、兄がやったバスケを当然僕もやるかのうように周囲から見られるのが、次第に嫌になっていきました。

なんでも兄と比較されるのです。

「○○さんは何をやってもすごいね」
「○○さんはバスケのエースだ」

などと兄の褒め言葉を聞くたびに、次第に兄に対して対抗心や嫌悪感を覚えるようになったのです。

反抗心でバレーボールを始める

中学では、周囲の反対を押し切り、バスケをやらずにバレーボールを始めました。
正直言うと、バレーじゃなくてもバスケ以外ならなんでも良かったのです。(バスケ好きの方すみません。)

バスケットを「やるもの」として周囲から当然視されることや、兄と比べられることが嫌でした。
まして、もう反面教師としてみていた兄と、同じことは絶対にやりたくなかったのです。
大きな夢も目標もなく、バレーに身を入れてやるということもなく過ごしていました。

そして、中学2年の時、僕の方向性がガラリと変わる出来事がありました。
バスケ部の顧問の先生に話があるからと呼び出されたのです。

「やばい、バスケ部に転部させられる」

そう思いました。

体育教官室で一人ぽつんと待つ僕に、バスケ部の顧問の先生は入ってくるなり笑顔で話してきました。

「バレーはどうだ?」

きた、やっぱり部活の事だ。バスケ部に引っ張る気だ。

そんな心配をよそに、顧問の先生は続けます。

「バスケ部は人数も少なくて、1年からどんどん練習してる。
バレー部は人数が多くて1、2年生はボール拾いばっかりだな。

毎日ボール拾ってるおまえを見ると、無理矢理バスケ部に入れれば良かったな〜
でも、おまえが選んだんだから、バレーを頑張れ。それだけだ。」

真剣にバレーボールに取り組む

中学2年の秋の期末テスト。
それまで、学年120人くらいのなかで、中の下だった僕が、いきなり6番になります。
さらにそれ以降卒業までのテストは、ほぼ1番か2番の成績を収めるようになったのです。

体育教官室に呼ばれて以来、僕の中学生活は一変しました。

まずバレーを真剣に取り組むようになりました。

卒業までに身長190cmになる予定を立て(笑)
実際に190cm用のブカブカの学生服を買ってもらい着ていました。
残念ながらこの予定は未だに達成できていません^^;

当時全日本で大活躍していた中垣内選手に憧れ、同じ大学の筑波大学に進むことを決めます。
この時まだ、どの高校にいくか決めていません。
志望校の欄にも高校ではなく「筑波大」と書いていました。
第1志望から第3志望まで。

先生に「高校は?」 と聞かれても
「高校はまだ決めていません。でも何が何でも筑波大に行きます」
と答えていたのです。

筑波大に入るには、バレーの名門校にいくか、進学校にいくか。
他県の名門校に入ることも考えました。

その場合、下宿代の足しになるようにお年玉や、お小遣い3000円のうち2000円を、母親に貯金してもらうようにお願いしました。

10万円くらい貯めてたかと思います。
今思えば、たったそれだけでは何の足しにもなりませんが、当時自分なりにできる最大限のことだったのです。

しかし、そのお金も兄の大学受験用にすべて使われてしまうことになります。
(兄は能代工業には進まず、バスケ県内2位の近くの高校へ。)

結局、現実的に考えて、バレー部があり、筑波大が狙える県内の進学校に行くことを決めます。
その結果、猛烈に勉強しだして、短期間で6番という成績になったのです。

目的があると、人は強く変われるものですね。

片道16キロの通学

高校に入ると片道16キロの自転車通学。

朝の1時間目の前から補習があり、赤点は60点。
予習も毎日2時間しないと追いつけない進学校でした。

そんな中でもバレー部では1年生からレギュラーになり、県選抜のメンバーにも選ばれるうようになります。
筑波大でバレーをするという目標に一歩一歩近づいているのが日々感じられました。

一方兄は、受けた大学すべて落ち、親が駆けずり回って見つけてくれた実業団のバスケットチームに入ります。

「何にもしなくても、親が全部やってくれる」

そういう兄に、怒りを超えた憎しみを抱くようになっていました。

長男は家を継ぎ、次男は家を出る。
田舎でよくある考えが、うちの場合も例外ではありませんでした。

いずれ家に戻ってきてもらうために親も兄には手も金もかけます。
次男坊の僕は、「あなたはこの家を出て行く人」と、もの心ついた頃から常々言われていました。

県内でも強豪校となり優勝し、3年連続県の選抜チームにも選ばれ、大学受験も合格。
中学から目標にしていた筑波大学に無事入ることができました。

「憧れの場所でバレーができる。」

夢と希望に満ちあふれた大学バレーが始まったのですが、、

入部後わずか1ヶ月で退部してしまったのです。

大学時代。バレーボールでの挫折

高校に入る前から決めていた筑波でのバレー。
周りは新しい仲間を作り、明るいスタートを切っている春に、僕は6畳一間の薄暗い学生寮にひとり閉じこもっていました。

「何のためにここに来たんだろう」と。

好きだと思っていたバレー。
思い返すと高校時代に監督と合わず、気がつくとバレーが嫌になっていたのでした。

それでも高校時代続けられたのは、筑波でやるという想いや選抜チームがあったからです。
しかし、筑波に入ったことで、長年の目標が達成し、自分のなかでバーンアウトしてしまいました。
また頑張ろうと思う気持ちよりも、バレーがしたくない気持ちの方が勝ってしまったのです。

また自分の身長やレベルでは通用しないという壁もありました。
同学年には身長2m、全国優勝、オリンピック有望選手など強者ばかり。

田舎でエースアタッカーとしてやってきた僕は、アタッカーとしても、レシーバーとしても中途半端で全く通用しなかったのです。
(当時、リベロもまだルールでありませんでした)

大きな挫折感を感じました。

バレーの才能にも、自分のバレーに対する気持ちにも。。

親のありがたみを初めて知る

それまでまともにフライパンも持ったことのない少年が 、一人暮らしを始め、心細さも加わたったため、余計に続けられないと思ったのだと思います。
一人暮らしをして、はじめて親のありがたみが身にしみました。

ご飯は勝手に出てこないし、自由には責任も伴うとことに気がつきました。
恥ずかしながら大学生になり、1人暮らしをして初めて気が付いたのです。

僕は誕生日に「おめでとう」と言われるのが、ちょっと苦手です。

「バレーを辞めた」と、母親に電話で伝えたとき、こんな話をされました。

『あなたを妊娠したときに、婆ちゃんからは(母にしてみれば義母)産むなと言われた。
でも、私がどうしても欲しくて産んだんだ〜ありがどな〜』

バレーに挫折し、心をえぐり取られていた僕には、その言葉が心に深くしみました。
受話器を持つ手が震えていました。

もしかしたら生まれていなかったかもしれません。
母親が反対を押し切って産んでくれたから僕は今ここにいます。
それ以来僕にとって誕生日は母親に「ありがとう」と言う日だと思っています。

目的をもって目指してきた大学で、目的を失ってしまい。。
心が空っぽになっていました。

しかし、大学までやめる気にはなれず、その後は単位取りとバイトに明け暮れるようになります。
動いていなければ、どうにかなってしまいそうで。
母親からの言葉を胸に、卒業まで何かを見つけられればいいと自分に言い聞かせて。

スキーにハマる

バイト仲間と一緒に行ったスキー。
秋田では、毎日のように滑っていましたから、どんな斜面でも簡単に滑れると思っていました。

ところが、コブ斜面に行くと全く滑れません。
オリンピックの正式種目になったモーグルでは、ハイスピードで、いとも簡単に滑っている映像を見ています。

「なんじゃこれ」

できないことに対しての、克服心が芽生えました。

クリスマス・イブにひとり車中泊でスキー

そして、クリスマスイブでも一人で車中泊するほど、スキーにのめり込むようになっていったのです。

バレーをやめ、単位を取りまくったおいたおかげで、1,2年で卒業単位の7割8割を既にとっていました。
「野外教育」という専攻を選択し、スキーが出来る環境をせっせと作りました。
しかし、周りにモーグルをする人なんていません。

当時はまだ珍しかったモーグルコースを探し求めて、ひとり車中泊で練習しにいったものです。

野外教育は、キャンプ生活を通して子供を教育したり、自然環境をテーマにした研究分野を言います。

例えば、登山でも一般の登山コースは通らずに、子供たちの背丈以上もある藪のなかを「やぶこぎ」をさせて進んだり、沢の中に入って「沢登り(沢下り)」をさせます。

先が見えない中を自分たちで道を切り開いていく、やぶこぎ
靴やズボンがぬれた状態でも我慢しながら進まないと目的地まで行けない沢登り(沢下り)

そういった自然体験を通して、生きる力を身につけさせます。

登山後はひと回りも二回り大きくなった子供たちがいました。
スタッフである僕らも、実は子供以上に学びが多い経験でした。

僕自身も、やぶこぎや、沢登りをすることで、バレーに挫折し、大きく空いた心の穴が少しずつふさがり、新しい自分に変わっていくようでした。

夏休みは40日間、東北にある研究室のキャンプ場で過ごし、1週間弱で入れ替わる子供たちを相手にしていました。

大学院に合格するも、スキーがしたくて辞退

野外教育研究室には、スキーをする目的で入ったのですが、次第にキャンプにも興味がわき、一時は大学院も目指します。

正確には、大学院の入試も受け、合格。
しかし、大学卒業1週間前に大学院を辞退。 

やっぱりどうしてもスキーがしたかったのです。
そして、就活も一切やらないまま、スキーがやりたいという想いだけで大学を卒業。

それから3シーズン、夏は工場などで働き、冬は長野県白馬村にあるスキー場のモーグルスクールに入って籠もるという季節労働生活を送ります。

スキースクールでビジネスを学ぶ

3シーズン目にはスクール主任を任され、売上げを160%アップさせることにも成功。

その夏から年間通した会社組織に変わり、立ち上げ部隊として、兵庫、大阪、東京、埼玉と、1年ごとに新しい部門の立ち上げに携わりました。

レッスンでは人に「見せる」「教える」ということも求められ、今の勉強会やセミナーにも大きく役立っています。

また、アメリカブランドの輸入販売代理店として物販もやらせてもらい、ホームページも自分で作って、ネット通販も行うようになります。

スキーのインストラクターから、今のインターネットを活用したビジネスへと移れたのも、この頃の経験があったからこそです。

この会社の社長とは同時期にスクールに入り、会社設立も一緒に取り組みました。

今ではスクール業にとどまらず、国内数カ所のスキー場運営、中国のスキー場運営など、業界でも注目される企業へと成長しています。

僕がいた頃は社員ではなく、一人一人が個人事業主として所属している形でした。

給与も基本歩合です。
そのおかげで、時間労働ではなく、与えた価値によって収入が得られることを学んだり、節税に関することを学ぶ事ができました。

アメリカのブランドがなくなり、物販から撤退、群馬のスキー場で再びスキーのインストラクターに戻った時は、1度目の結婚したばかりで、半年間無休で無給ということもありました。

夏場のトレーニング施設としてスキー場内に建設し運営する予定が、工事が難航しオープンが4ヶ月ほど遅れてしまったのです。

その間売上げは0、オープンしても時期を外してしまったため、売上げもさほど上がらず、その責任として無給としました。
良くも悪くも「ビジネス」というものを学ぶ事ができました。

そしてその冬、父親が亡くなったという知らせが届きました。
父親は自ら死を選んだのです。

父親の死

父親は、首のヘルニアで思うように体を動かせなくなってきたことと、膨らみ過ぎた借金を苦に、死を選択しました。

聞いた話では、家に代々残っていた借金。

それに加え、父親の兄弟たち(父親は5人兄弟の長男)が家を建てる時に工面したお金、農業機械の購入などで、この先自分では返せないほどになってしまったのです。

バスケを怪我で引退し、離婚までして秋田に戻ってきていた兄も、就職しては辞め、就職しては辞め、家の借金を返すどころか、自らも借金を作るなど、昔のヒーローの面影はもうどこにもありませんでした。

保険金でまかなえると父親は思っていたかもしれませんが、新たな借金が次々と出てきます。
具体的にいくら借金があるかは父親以外誰も知らず、残された家族は、さらに辛い状況になっていったのです。

父親は誰にも悩みを言わず一人で抱えて、すべて持って行こうとしたんだと思います。
しかし結果は精神的にも、経済的にも家族を苦しめることになってしまいました。

父親の死を機に、兄も心を入れ替え、僕もやる気がわいてくるかと思っていたのですが、一時的なものにしか過ぎませんでした。

兄から度々かかってくる電話は「仕送りしてくれ。金送ってくれ。」ばかり。
 
僕は、ヒーローで誇りだった兄に罵倒するようになりました。。。

自己犠牲

そして、僕自身も

「自分はもっと頑張らないといけなんじゃないのか?」
「寝る暇を惜しんで、もっと働かなくちゃいけないのでは?」
「なりふり構わずガツガツやらないといけないんじゃ?」
「スキーのインストラクターなんかしてるばあいか?」
「自分が秋田に帰った方がいいのでは?」

などと「自分が頑張れば」と、自分を犠牲にすることばかり考えるようになっていました。

母親や兄が後を追ってしまうのではないか、とも。。

また当時の奥さんも体調不良が続き、度々倒れるようにもなります。

自宅で仕事ができて、いつでも動けるようにしたい。

これがスキーをやめ、インターネットを活用したビジネスを始めるキッカケになったのです。

新しいインターネットの世界へ

どんなに辛くとも、ほんのわずかな良い兆しに着目し続け、ひたすら前向きに考え続けました。

幼い頃の寂しい気持ち、兄との確執、父親の死を恥じている自分

それらに囚われて続けていました。

インターネットトがきっかけで出会う人たちは、これまで僕が会ったことのないような方ばかりでした。
価値観も大きく変わり、これまで手放せていなかった僕自身の勝手な想いも、少しずつ手放せるようになっていったのです。

幸い運にも人にも恵まれ、独立後4000名以上の方のアメブロ、ワードプレスのカスタマイズサポートや活用支援をすることで、自宅でできるビジネスを少しずつ確立していく事が出来ました。

2009年に始めたアメブロでは5600名の読者を超えるほどの人気ブログに(今はなくなってしまいましたが…)

始めてから1年で軌道にのり、スキースクールから独立を決意。
13年お世話になりましたが、2010年に独立いたしました。

2012年3月には、ソーテック社より「アメブロ 逆引きQ&A101」を出版することもできました

基本設定からカスタマイズまで! アメブロ逆引き Q&A101

気がつくと、自宅で全国、あるいは海外在住の日本人の方をサポートするだけではなく、各地でセミナーを開催するようにもなりました。

「自宅で出来る仕事」として始めたインターネットビジネスですが、「場所を選ばない仕事」になっていたのです。
そのキッカケをくれた前の奥さんにはとても感謝しています。
(2016年からは離婚を機に、活動拠点を鎌倉に移しています。)

自然体で自分らしい生き方

僕が感じるのは、今の自分を作っているものは、過去の自分であり、決して恥じることや負い目を感じることではない、むしろ自分を進化させてくれるとものだということです。

今の奥さんは、僕の過去の辛かったことや弱いところもさらけ出したから受け入れてくれました。
再婚カップルですが、お互い支えあいながら過去をプラスにして今を楽しんでいます。

無駄な経験や想いなどなく、どれも今の僕を作るのに必要な事ばかりです。
きっとそれは、僕だけでなくひとりひとりにも言える事だと思います。

経験してきたことこそが、その人の魅力になります。
飾ったり、無理したりせず、自然体で自分らしいのが個性です。

その自然体で自分らしさを出して、一人一人がファンを作ろう。
これが僕の伝えたいことです。

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